2013年5月20日月曜日

油絵(静物画)講習

静物画なのでノれるかな、とは思ったものの、おもしろかったです今年も岐阜県美術館の油絵講習。5月の5日、12日、19日。先生は昨年と同じ山田昌弘さん。おかげさまで、ン十年ぶりだった昨年に続いての油絵、成人以降で2.5作目が(0.5というのは昨年の講習後に自分でも試みて結局、やめちゃった分)なんとか描けました。

スケジュールは昨年の裸婦とほぼ同じなので略。一日目の下塗り画像も略。こちら(↓)は二日目の終わり。奥に見えるモチーフがご覧のとおり、ずいぶん独特で見れば見るほど気分は抽象画。モノを写しているというよりは、色面を写している感じ。例えば、モノとしては折れ曲がっていても色面的にはフラットだとか、同じモノでも位置や状況でスパッと意外なほど色が異なる(絵に実現しきれていない部分ありますが)だとか。見れば見るほど。美大なんかではやるのかしらん、そういう実験。


奥も手前もなく全体を同時に、あちこち逐一修正しながら描いていく(乾かない油絵具らしい?)やり方にも、なんとなく慣れて。ふだんのモザイコ制作にかなり近い部分と、細かくも描けるなど遠い部分と、いろいろ独り合点しながら。

スケッチの段階で、えらく俯瞰の位置に決めてしまったためキャンバスちょっと極端な縦長。出張の画材屋さんが一日目のお昼に、店に取りに行ってくださり感謝。周囲の方々とのおしゃべりも、まじめに具体的にテーマに向き合う同士で心楽しく。先生の「くるっていても描き続けられる神経が、絵をつまらなくする」というセリフもなんだか溜飲が下がるようで。いいテンションでした。


あんまり大きくするの気が引けるけど、このブログは画像の横幅500pixを基本にしているためエイヤッと(↑)三日目の終わり。情感の希薄な絵。今年も先生の口から出た Richard Diebenkorn に引き続き興味津々。こんど詳しく聞いてくるダス。


2013年5月17日金曜日

モザイコ新作 dASSK

話題づくりに安倍首相なんかやってみたらどう? と言われることもあるんですが、モザイコ制作は、昼夜を問わず当分のあいだ延々ひたすらモチーフを見つめ続けるという恐ろしい作業なだけに、相手を選びたくなる。つまり、しばらく見つめ続けて(こちらが!)大丈夫なモチーフじゃないと、なかなか描けない。

というワケで、新作は dedicated to ASSK。米国のヒラリー国務長官とのツーショット写真に思わず涙したのが、2011年12月。先月の来日もあり今後のこともあり、話題の人ではありますが話題づくりよりも、本当に描きたくて描きました。


The future is always different from the present, and present is different from the past. So, all of us is grain to its something that is new and that is different from haughtily have known.

これ(↑)先月の、日本のテレビ・ニュースからの私の聞き取りなので間違ってたらゴメンナサイ。とにかく、世界の片隅からのこれも小さなエール、になるのかな。ASSKとそれが体現しているような、なんていうんでしょうか、ものに向けての。

えー! また誰だか分からないってか!?

2013年5月8日水曜日

荘子……パンク・ロックのその先へ

赤ん坊、水につけると泳ぐっていいますし、ヒトは放っておいても息をする。蜂なんぞ「おいしい、おいしい」とただ花の蜜を吸うだけで植物の受粉にそのまま貢献するというあたり、自然はよく出来てますなと感心したり。そんな中で、なんで人間のそれも、おそらく大人だけが? とこれまでも思うこと度々。

今年2月のおそろしく明晰な井筒俊彦『意識と本質』以来、どうにも禅のことが頭から離れず、とうとう『荘子』……本屋でちょっと読み比べてみて、まずは講談社学術文庫の福永光司『荘子 内篇』を人生のこの時期に、読めた偶然に感謝。で、忘れないうちに、エイヤッ(↓)と。パンク・ロックのその先へ。

荘子的絶対者においては、与えられた自己の生を全うすることが人生の第一義であった。(p153)

極端にいえば、どんな情けない手をつかってでも??? ニホンジンみんな大好き「武士道」のコレ、ほとんど逆??? 「絶対者は、是非の分別を捨て、利害得失を一つと見なし、無心忘我の境地に安らかな自己を愉楽するから、その外観は全く愚鈍な人間のようである」(p120)とナルホドあんまり、カッコよくない。……なんていう料簡であれば、『荘子』冒頭のムチャクチャなスケールの(魚が飛び立つ)話とは、おそらく無縁。三重ハテナと赤字で強調すると、そこだけに目がいってしまうのでアレだけど、ちゃんと読めば、もちろん、

「これ」と「あれ」とは相即的に成立する相対的な概念である(中略)。生と死、可と不可、是と非の対立も、実は互に相因(よ)り、相待って成立する相対的な概念であり(中略)
聖人もまた是(ぜ)による。しかし、その是はもはや因非因是の是、すなわち非と対立する相対の是ではなくして、一切の対立と矛盾をそのまま包み越える絶対の是なのである。そこでは、「是(こ)れもまた同時に彼であり、彼もまた同時に是(こ)れである」。(p69-70)

というような、いわば “カッコいい/わるいの向こう側の”「是」=カッコよさ。……まだダメだな、知れてる。そのまえに前提として、「それは本来、人間性の善と美を讃える希望と信頼の哲学であるというよりも、人間性のすくいがたい険しさと暗さを慟哭する絶望と不安の哲学であった」(p186)そうで。

今日の栄誉が明日の汚辱にくつがえり、今日の生が明日の死にくつがえり、今日の有が明日の無にくつがえる世界(p186) 
彼(荘子)は権力がどす黒い血を噴く中国的政治社会の暗く険しい現実をも人間における “止むをえざるもの” として肯定する。(p194)

そろそろパンク・ロックっぽい? ぽいって……。そういえばY社の社長が「グローバル経済の Grow or Die」そして「年収が1億円と100万円に」これから二極化していく可能性を示唆して話題になったのが半月前。あるいは、世界各地でのテロのニュースやら。ひらひら「胡蝶の夢」(p136)の荘子にしたところで、けっして「真の超越者は人間そのものの否定者でも現実世界の逃避者でもな」く、「現実のまっ只中に身を置き、世俗と交わりながら」(p184)云々。

こないだ見てた鈴木清順監督「ピストルオペラ」も荘子っぽい? ぽいって……

他人を出し抜いて、徹底的に勝ち残っていくことを目指す人々について、どうこう言える立場じゃありませんが(バカヤローと思う反面、ちょっと羨ましいところもありつつ)いつも、「じゃあ出し抜かれた大多数は、もちろん自分も含めて、死んでいいワケ?」と頭のどこかで思ってました、これまでは。……でも、死んでいいんだと(このとき荘子と違って私、泣くと思うけど、とにかく)人間だけがサボって生きてても大丈夫というのは不自然。なんかサッパリした。考えてみれば動物だって、エサにありつけなけりゃ死ぬ。素直。意外と「死者だって、死んだ当初にもっと生きたいと泣き喚いた自分を後悔するかもしれないのだ」(p122)とも。

荘子は人間の最も大きな悲しみと懼(おそ)れを、その “未来への思い惑い” の中にとらえる。(中略)彼は現在を現在として、その中に徹底的に生きよと教える。人間にもし絶対的な自由があるとすれば、それは一切の必然を自己の必然として受け取る自由であろう。あらゆる必然を、それが汚辱であろうとも、あるいは死であろうとも、自己の必然として逞しく受け取ってゆく、その逞しさの中に真に健康な、そして安らかな人間の生活があると荘子は教えるのである。(p201-202)

人々に仰ぎ見られ、堂々とそびえ立つ巨木に対して、あれは「全く何の使い道もない無用の大木だ。そして何の使い道もないからこそ、こんなに長生きできたのだ」(p212)なんて話も痛快。ナルホド何がいったい本当に、さいわいするか分からないもので。どだい「主知主義には一つの根本的な弱点がある」(p272)つまり、人間が日常言語で考えられることなどタカが知れていると??? 哲学なんかでも「理論的に」と「実践的に」が区別されるように。

そのことを、井筒俊彦『意識と本質』のように明晰に示してくれる思考例を最後に(↓)。それでも人間は、こんなことまで考えられるのだという……これこそが「禅」なるものへの興味の中心。すなわち言葉の、そしてパンク・ロックのその先へ。なんつってミュージシャンでもないのにスイマセン。

ところで一という言(概念)は、その内容として一とよばれる概念実体(道)を摂取するから、既に道を一と判断するからには、一という概念そのもの(言)と、一という概念の内容として摂取される実質(いわゆる一)との二元の対立を生ずるわけであり、この二元の対立を抽象して考えると、ここに二という数が成立する。つまり「一と言と二となる」のである。ところでこの二という数に一 —— 真の一すなわち判断以前の純粋体験としての実在そのもの —— を加えれば、ここにさらに三という数が成立する。(p97-98)
あらゆる形を形として成り立たせるもの —— 特殊を特殊として成り立たせるもの —— は、それ自身形をもつもの —— 特殊 —— ではあり得ないから、造物主とは、形なきもの、人間の形象概念では捉えることのできないもの、すなわち自然ということでなければならない。自然とは、自のずからにして然るもの、すなわち、人間の認識を超えたものという意味である。(p134)


2013年5月1日水曜日

モザイコ・スピーチ

先週の金曜日、4月26日に地元のロータリークラブでスピーチしてきました。難しいって言われないよう気をつけながら。おかげさまで好評。で、いまRC会報用にも原稿をえっちらおっちら仕上げまして(当日の内容そのまま書き起こすわけにもいかず、これまでの経緯を端折って圧縮&加筆修正したものですが)限りある資源の有効活用ということで当ブログにもアップ(↓)。

さんざ迷った末にジャケットのみ、下ジーンズという正装で

えー、今日のスライド、パソコンからでなくスマホ(iPhone)からプロジェクターに送っています。こんなに小さくて手軽で、本当に便利な時代になりました。……とはいえ、最初に少しトラブったようにIT機器、便利なんですがどうも信用しきれないところもある。

モザイコという絵画シリーズを描いています。ご覧いただいているとおり、ものすごく粗い「ドット絵」のようなもの。コンピュータに表示される写真などはご存知のとおり、たくさんのドット(点)が集まって出来ています。モザイコは、いわば、そのドット(点)をギリギリまで減らそうという試み。制作にコンピュータ、使いますけれども基本は人力、まさに油絵などと同じ感覚で描かれています。

初期のモザイコ(C)Ondo Shimizu

わずかこれだけのドット=情報でも、頑張れば、ここまで表現できるということがお伝えできれば。それと、もし明日、世の中からコンピュータが忽然と消えてしまったら? なんてことも考えながら(実際、数十年前までなかったワケですし)。つまりコンピュータ、ものすごく便利なので我々、使いますけれども、どだい人間それに頼りすぎるのもどうかと。

モザイコの基本(なまの状態)は、手書きでも “完全” コピー&ペーストできます、ドット=情報が少ないですから。また制作も、とくにコンピュータ使わなくても可能。明日コンピュータがなくなっても大丈夫。じつは俳句なんかもそうですね、簡単かつ完全に書き写せて、つくるにもワープロが必ずしも要るわけじゃない。だって、かなにしてわずか17文字。簡素。しかしその表現力たるやご存知のとおり。人間の脳みそって不思議です。

そんなモザイコを「コンテンツ・ビジネス」としても離陸させようと、2006年以来、アレコレやっています。いま申し上げたような、従来の絵画とも違う、かといってコンピュータ・グラフィックス(CG)というのとも違う、ちょっと独特な絵なので、その強みを活かした商品づくり等々。

経済人の方が多いのでお金の話(↑)一応

上(↑)は去年、別なところでお話させていただいたとき作った身も蓋もないチャート、絵描きが仮に10万円をお客様からいただく場合の、そのスタイルの整理です。三つめの「インディーズ・クリエイター」というのは昨今、大人気のフリーマーケットなどで自分の作品/商品を直接お客様に販売する人たち。一つめは皆さんよくご存知の、いわゆる画家の方々。モザイコは現状、二つめのところになるかと思います。

機械生産商品、としてありますが当方からは基本的に絵柄データを提供し、それを使って先方(メーカー/ショップ)様が商品を製造して販売、そしてその売上の一部がモザイコにロイヤルティ(絵柄使用料)として支払われる仕組み。要するに、一つめと三つめの商品製造方法「手作り」が、この二つめだけ「機械生産」になる……つまり絵描き/クリエイターが直接商品を、つくらないスタイル(なので後々さらに掛け算ができる、成長すれば)。

それぞれのスタイルで当然、長所と短所、そしてそれぞれ苦労やノウハウがあります。こうして実際に、ざっくり数字を入れてみると、いずれにせよ商売そうそう生易しくありませんし。アートの場合、もちろん、最初に商売ありきではないですが、かといって活動のための「エネルギー補給」ゼロでは続けていくことができない。そう考えると企業であれ、クリエイターであれ、あるいは生き物ぜんぶ、同じかもしれませんね。

いまのコンピュータや機械も含む大きな「自然」のなかで、モザイコまだ赤ちゃんみたいなものですが、どうにか生きて、成長していけるよう頑張ります。そして将来、なにがしか世の中の役に立てますように。ということで、ご静聴ありがとうございました。


2013年4月13日土曜日

モザイコ新作 Grandma

年明けから受注モノをやっていたため、自主制作は何ヶ月ぶりになるんだろう。モザイコひさびさの公開用新作。いやー大変でした、時間かかるかかる(受注であれ自主制作であれ基本は同じなんだけど、こういう自分が選んだモチーフにひさびさに取り組むことで感覚そのものがまたリセットされ、ありがたい)。


本当に奥が深いです(と自分で言ってちゃあ、しようがないですが)モザイコ。あり得ないリアリズム。どうやって説明したらコレ、人に伝わるんだろう? 将棋を指すようなもの、とでも言うのかしらん(やっているときの頭の中のことを実際、将棋の人に訊いてみたい気がする)。とにかく独特な集中と刻々「景色の変化」があって......とネ、ほら、ワケわかんない。失礼しました。

絵柄もワケわかんなくちゃ困るんですが、今回のモザイコは(一応、言ってしまうと)ばあちゃん。具体的な誰彼というのでないですが intimateに。「インディアン、ウソつかない」でも可。私なりのリスペクトを込めまして。

次は元じゃなく現役美女でいきたい。

2013年4月6日土曜日

心あたたまる話 from TED

半分これ自分用のメモだけど。TEDから私なりに、心あたたまる話いくつか。すべて日本語訳あり。

そもそも今回、これ(↓)をメモしたくて始めたんだけど Charlie Todd: The shared experience of absurdity(バカバカしさの共有体験 / Filmed in May 2011)全編12分あるうちの白眉、08分50秒から10分10秒にかけての話。写真より映像で見たほうが断然いい。誰だか分からないRobが、エスカレーターの最後で high-fiveしてくれる。このスペシャル感のなさ。


JR's TED Prize wish: Use art to turn the world inside out(アートを通して世界をひっくり返す / Filmed in Mar. 2011)は24分と長いけど全編、とても興味深い話。意外とそういうことなのかも、と思う。ちなみにコレ(↓)は18分18秒から18分31秒にかけての、列車の通るシーン。


お次は、Liza Donnelly: Drawing on humor for change(ユーモアに「変化」を託す / Filmed in Dec. 2010)これ07分弱と短めなので全編。「なにかが私たちにいつも期待されてるような、このぼんやりした感じって何?(↓)」


最後はとりあえず、Al Seckel: Powerful visual illusions(アルは、私たちの脳が間違ってプログラミングされると語っている。/ Filmed in Feb. 2004)14分半。アル・セッケルの語り口もお見事。全編おもしろいんだけど、この写真(↓)や、03分20秒から03分45秒にかけての列車&トンネルなんかの、どうってことない感じのうちにある「あれれ?」が粋でよござんす。心あたたまる。


とり急ぎ。
メモ終わり。

2013年3月25日月曜日

京都版画トリエンナーレ

3/14(木)夜:モザイコ版画(仮)サイズ検討中
モザイコを美術作品にするやり方として、シルクスクリーンなど版画のことを考えていました。美術評論家のKさんに相談し、ちょうど教えていただいたのが「第一回 PATinKyoto 京都版画トリエンナーレ 2013」。なんとタイムリーなということで急遽、先週土曜(3/23)シンポジウムのある日に行ってきました。

PATinKyotoアドバイザーの木村秀樹さんがシンポジウムで「Post Modern Printmaking」と言われていたとおり、これも版画? と思うような刺激的ないろいろ。近代絵画を母として生まれつつ、オリジナルの一点性を原理的に否定してしまう鬼子としての版-画。そんな近代版画を母として、いま Post Modern Printmaking が生まれつつあるのだと。必ずしも楽観的な話ばかりでなく。あくまで私の要約なのでアレですが。会場の様子(↓)写真は大阪芸術大学・版画コースで教えていただき、PATinKyoto FB担当者の方にお願いしてお借りしました。


いずれにせよ、版なるもの、の存在がキーなのでしょう。従来型の「版」のみならず、立体の場合の「型」や、デジタル写真の場合の「元データ」もそれに含まれるのか。それら “版なるもの” を使っての、画。ということで、よろしいですか?(←誰に向かって訊いてるんだ?)……そんなワケで、美術作品としての強度が、いろいろ独自なかたちで試みられていて興味深く。

ちょうど京都市美術館の上の階でやっていたアマチュア愛好家による「日本大判寫眞家協会」展(4×5や、8×10カメラによる大判写真展)も覗いた後だっただけに、例えば大島成己さんの写真作品のサイズとクオリティに驚嘆したり、同じように超至近距離で眺めながら坂井淳二さんの作品の大変なモノ性(シンポジウムで「20数版じつは重ねてます」とご本人)に感心したり。テクニカルな側面だけみても要するに、日常/通常とはケタが違ってこそ、度が過ぎてこその美術作品。

高嶋英男さんの作品「墓石デザイナーの伸夫さん」では、実在の人物(の顔)が型どられ、いろんな格好の伸夫さんが四人同時に会場にいる。あ、反復もたしかに版画ならでは、と思った私がそのあと会場の外で、群れる鳩さえも版画に見えてしまったとしたら本当に美術作品さまさま。「版」なる概念は、使い方によって、かなり革命的?……何でもアリになってしまっては元も子もありませんが。

二次元の版は、三次元のなかで「レイヤー」となる。じゃあ三次元の版は、という頭の体操はとりあえず措いといて、そのレイヤー性に着目した作品もいくつか。あるいは古典的な手法であれ、純粋に感受性のレベルでケタの違うものだとか、とにかく刺激をいろいろ、たくさんいただきました。


で、Post Modern Printmaking の話。篠原資明さん含め「ポスト・モダン」のとらえ方ついての確認も少しありました。また、先の坂井さんも途中ぽろっと「たくさん刷っても売れなくて」と。美術作品としての版画の、流通の仕方や、それに基づくところの作られ方/とらえられ方が、まだモダンの領域にとどまっているとしたら?

シンポジウムの休憩時間に、木村さんと少しお話しできたとき私「本当はオリジナルの美術作品があって、いわばその川下にミュージアム・グッズや商品があるところを、モザイコは逆にさかのぼろうとしていまして……」と。なので美術作品の制作も、極端にいえば販促(商品の販売促進)活動。しかし、であればこそ私のような者でも本気でそれを、いま、やりたいと思う。美術は昔から好きですが、いわゆるアーティスト活動や展覧会といったものに(それらは少し自己満足的に思えて)これまで、あまり興味がありませんでした。自分の役割だと思えなかった。けれども、いまは違います。

コンテンツ(データ)レベルでの自負はあるので、あとは今回の会場で見たような、モノとしての強度の部分。商品も「版」を使いますが、商品は商品で社会的制約が多いため、度が過ぎるところまで強度が上げづらく。作り手として「すごいのが出来た」と思うような決定版はやはり、美術作品として作らないと無理かと。昨年の講習のあと油絵具なども試しましたが、どうしてもそれでは画が生きない。コンテンツ・レベルでは Painting(モザイコ=超低解像度絵画の英語表記は、Ultra-Low Resolution Painting)でも、それを作品化するときには仮にたとえ一点モノであれ、Printmaking。そんな本性のモザイコ。どうしても川を、さかのぼるのが運命なようで。

商品であれ作品であれ最終的には構わないのですが、とにかく「完ぺきだ、これ高くても(誰よりも自分が)欲しい」と思うものが作れますよう、引き続き。ご多分にもれず足りない知恵とお金の算段しながら、がんばります。それいけ Post Modern。


※ AMeetT 木村秀樹さんインタビューはこちら(→)http://www.ameet.jp/feature/feature_20121227-3/