2017年5月25日木曜日

TIKI POP

The Rise and Fall of Ziggy Stardust ... は David Bowie ですが、いかにして「TiKi」はアメリカの夢となり、そして廃れていったか。2014年にフランス Musee du BRANLY であった展覧会の図録になるのかこの本『TIKI POP』を、読み終えたのは去年のたしか 6月だったかと思いますが、前回の「M*A*S*H」記事などもあり、やっとこさ思い立ってブログ化。

Armchair Traveling(リヴィングに座ったままでの世界旅行)だとか Air-Conditioned Eden(空調されたエデン)だとか、事象をなかば、みずから揶揄しながらも楽しむこの感覚、ユーモア。やっぱりそれが基本だと思う。1950〜60年代のアメリカで流行した大衆文化「Tiki」、Polynesian Pop とも呼ばれる南洋趣味について、何はともあれ、ノートにあった抜き書きを中心に。


戦 争

Hardy farm boys and studied city men alike dealt with the hardships of war the American way, lightning their load with humor and imagination. If there were no dusky maidens waiting for them, one could still dream about them.(p.128) 
駆り出された無骨な農民たちも都会のインテリたちも同じように、戦争の大変さに “アメリカ式に” 対処した。つまり重荷をユーモアと想像力によって減らすこと。南洋の戦地に、褐色の美女は待っていてくれなかったとしても、それを夢見ることはできた。
右ページの下で死んでいるのは日本兵


アート

In the early 1900s, the modern avant-garde had discovered original tribal-art pieces as a revelation that helped them to deconstruct figurative art.(p.224) 
1900年代の初期に近代アヴァンギャルド(ピカソなどの芸術家たち)は、独自な部族的アートを、それまでの造形芸術をディコンストラクトする啓示として、発見していた。
In the mid-1950s(p.179)/ At the time of Tiki's arrival, a number of archetypes of South Sea escapism had been successfully established in the Western world's mind.(p.180) 
1950年代中盤、Tiki が到来したとき、南洋でのヴァカンス趣味など多くの原型はすでに西側世界に出来上がっていた。
Young sculptors fresh from art school felt free to realize their individual interpretations of "primitive art." (p.184)/ Far removed from the source of inspiration, the island, their creativity was free to develop. A new art form was taking place.(p.182) 
アートスクールを出たばかりの若い彫刻家たちは自由に、かれらの「原始美術」解釈をかたちにした。インスピレーションの源となった島々から遠く離れて、かれらの創造は進展した。新しいアート形態が出現しつつあった。

それ、ちょっと安直すぎないか? 補足すると要するに、商売になったということ。南洋趣味のバーやレストランがあちこちに建てられ、それ用に調度品や食器やメニュ、アトラクションなど多くの需要が発生して。まさに流行、大衆文化、ムーヴメント。それはそれで幸せなことではあるけれど、「Tiki Pop came and went virtually ignored by the art world.(p.185)Tiki Pop が来て、そして去る、実質アート業界からは無視されたまま。」

While precise, slick mid-century modern style was the mode of the period, a few artists tried their hand at the other end of the spectrum, going back to the rough, naive beginnings of art.(p.186) 
高級な、すべすべした「ミッド・センチュリー」モダン様式がその時代のモードだった一方で、ごく少数のアーティストたちは逆方向へと手を染めていた、すなわち、アートの始まりの頃の粗っぽさ、ナイーヴさへと。

ハワイ

Hawaii was a peaceful melting pot of several races, and, such as, was held up as an example of the "Family of Man" concept.(p.215)/ It was the United Nation of Polynesia!(p.217) 
ハワイはいくつかの人種の平和な “るつぼ” だとか、そういったものが「人類みな家族」コンセプトの例として祭り上げられた。それはさながら、ポリネシア連合国だった!

一昨年の当ブログから補足がてらコピペすると……「戦後のアメリカでは中産階級新たに就航したハワイ空路は、アメリカ中が『トロピカルな』ものごとに興味をもつことに拍車をかけた。(中略)1959年にハワイが合衆国50番目の州となったことは、さらにトロピカルな生活様式の人気をもたらし、アメリカ人たちはロマンティックな異国文化と恋に落ちた」そうで。



衰 退

This shunning of preconceived notions of "good taste" appealed to self-made pop-culture style-makers like Elvis Presley and Hugh Hefner.(p.324) 
ありふれた「趣味のよさ」を避けられるこの方法は、エルヴィス・プレスリーや「PLAYBOY」発刊者のヒュー・ヘフナーのような自前のポップ・カルチャー様式の作り手たちにアピールした。

しかし、時はたち、誰もが年をとり、昨日のカッコイイの多くは(それが流行れば流行るほど)今日のダサイに変化する。もう 4年前になるのかこれも当ブログからコピペすると、例えば、「ヒップは流動的で実体をもたず、スクエアが把握するのと同じスピードですばやく変化する。身振りを考案した観念ではなく身振りだけを追い求めると、手にするのは空気だけである」そうで。

While there were still many who frequented in Polynesian restaurants and participated in backyard luaus, they were mostly people who were labeled as "the establishment" : middle aged, well-off, conservative whites, out of touch with America's changing ideals.(p.345) 
まだまだポリネシアン・レストランによく行ったり、裏庭でのルアウ・パーティに参加する人たちは多かったものの、かれらは「エスタブリッシュメント」つまり中年の、裕福な、保守的な白人たちで、アメリカの移り変わる理想とは無縁の人たち、とされた。 


以上、ワープロ打ち、おしまい。The Rise and Fall of ... Tiki、というかポップ・カルチャー何であれそうだと思う。流行って廃って、経済と文化と社会、そんなワケでいろいろ教師と反面教師と。大きくて重たい本ながらご覧のとおり絵や写真がいっぱいで、楽しかったです。


2017年5月8日月曜日

R. アルトマン監督「M*A*S*H」

アメリカ式「プロの流儀!」と今回なぜか、深く感動してしまい。これ、コメディじゃなかったっけ? ロバート・アルトマン監督の映画「M*A*S*H」DVDをこのあいだGW中に、ふと観直していて。以下、うろ覚えで書いてるので(↓)しれてますが一応、ネタバレあり。

真ん中の女性のアソコが金髪かどうかも戦場では重要

上のほうが始めた(たいがい何でも始めるのは「上のほう」でありまして)この戦争、朝鮮戦線だったかな、の現場に外科医として駆り出されて負傷者の治療に当たる。急ごしらえのテントで、あり合わせの物資でもって看護婦たちと次々、手術しては処置して。タフな現場。そこでの使命は、とにかく、死なさないこと。

ひとりでも多く、死なさないために全力を尽くす。24時間ひっきりなしに運び込まれてくる負傷者に対応するためには、勤務時間外に、マティーニ飲んでゴルフやエロ話するのも仕事のうち? いやエロ話だけでなく実際みんなあちこちでヤったりも。もちろん、それが深い休息をもたらし、英気を養ってくれるなら哲学書を読んだっていいワケだけど、現場のバタバタを考えると最適なものは何か。個人差はあれど。修羅場で、規則に優先するものは何か?

ジョーク言いながらの真剣な手術

敬虔で真面目で、しかし本当はみんなと同じようにスケベ=普通で、そのアンビバレンツもあってか負傷者を死なせまくっているある医師は、主人公らのイタズラによって(ここの展開がじつに可笑しい)スキャンダルを口実に母国へ返される。これは現場のみならずその医師本人にとっても、いいことだと思う。環境が違えば活躍できる場もあるはず。まさに、粋なはからい

そういえば、太平洋戦争時の日本軍とアメリカ軍のこと、私もたまたま(昨年は「TIKI」関係など)いろんなもので読んだりしますが、例えば現場で “歯をくいしばる” 日本(軍)にそもそも勝ち目はあったのか? ただでさえタフな状況下、肩に力が入りまくってなどいて、絶望的な「特攻」以外にいったい何が出来る? その「真面目さ」は本当に任務(使命)遂行のためになるのか? ちょっと無責任なこと言ってしまうと、こういうこと、いまだに会社等にもありませんか?

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映画終盤では、近隣キャンプだったかな、と突然アメフトの試合するシーン。そう、上のほうが始めた、これもまさにゲームであり。戦争と同じように、いろんな駆け引きと戦略でもって、不確実性のなか刻々と現場対応しながら、勝利を目指していく。諦めず、慢心もせず、最後まで分からない勝負。

なんて書くと少々頭デッカチすぎ……要するに遊んでるんですが、結局、戦争中にも、かれら。やるなぁヤンキー。アメフトでも規則スレスレ。そう、いろいろあるけど人間とにかく、楽しむために生きるのだアハハ……と、やってしまうと今度はしかし、頭ちっちゃすぎる気もするなぁ。

戦場での、たしかプラトニックだったかな、愛人との最後の夜、その彼女になんとインポの同僚の実践治療をたのむという、ストーリー的にいえば “超” 男気、映画的にいえば大ジョークは、ベタな快楽主義「楽しむために生きるのだ」なんかより100倍、痛快でおもしろい。それでこそ映画、それでこそ文化!


そんなこんなで、主人公役のドナルド・サザーランドの、まー、カッコイイこと。上の画像は(↑)映画のプロモーション用だと思うけど、エレガントでございますな、何はともあれ。

タフさとハチャメチャさ、真剣さとお気楽さの(上の画像でいうと左が、パンクスでなくてさ、主人公の外科医で、右がヒッピーでなくてさ、ボストンだったかな、の心臓外科の名医という設定)じつに大きな振り幅。この振り幅が素晴らしいんですな。以前はただのキツめのコメディって印象だったのに、今回すっかり感動。タフな「戦場」での、プロフェッショナルの流儀。


2017年4月12日水曜日

大森荘蔵『流れとよどみ』

今日みたいな日に聴いていると、つくづく名盤だと思う……云々と(注)あるCDについて今朝 Tweetしたばかりですが、この「今日みたいな日に聴いていると」が実際じつは、そうなのだと。モノそのものが(今日は)異なるのだと。この考え方、というか事実か、すごくない?

お花見客のまえでセッションする気になったのも、今日みたいな日ならでは。

昨日たまたま大森荘蔵『流れとよどみ --- 哲学断章 --- 』をひさびさに手にとり、続きを読んでいて私、あらためて、絵描きとして本当に教えられるところ多く。

世界は常時かならず、あれこれの感情的な色彩をもって立ち現れている。(中略)そのニュアンスやトーンは赤や青の色彩の場合と同様に、極めて微妙に揺れ動き複雑な陰影をもっている。そして本来の色彩が眼やその他の私の肉体的状態如何につれて揺動するように、感情的色彩は私のその時々に置かれた状況や事件によって揺動し、時には急転回する。しかし 
本来の色彩が外部世界の色彩であるのと全く同様に、感情的色彩もまた外部世界の彩色であり相貌なのである。 
(「心身問題、その一答案」p.231 -232)

最後の一文(↑)特に強調するため改行しましたが、もうこの引用だけで十分なくらい。「物理的客観的世界と主観的意識世界という二元論的構図を棄て」ること(p.205)つまり、あなたの/私の、何であれ、いまの “それ/これ” は、心の中の話などでは全然なく、世界が実際そうなのだと。とても明晰に語られていて。

たしかに、と思う一方で、この「心身問題、その一答案」が発表された1979年と、現在の情報環境の違いを考えてみて、ちょっと背筋が寒くなったりもしながら。


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例えば「その過去の何ごとかは現在の風物と同じ時間と同じ空間の中、一つの四次元世界の中に立ち現われる」(p.228 -229)……この「四次元」は決してマンガ的な比喩などでなく、物理学出身の大森荘蔵らしく、文字通りの四次元。ええ、大賛成。この世界を次元という論理でスライスしたら、いま私が生きている “ここ” は、まさしく四次元。

この四次元世界が、物理的色彩のみならず感情的色彩も含め、実際にそう「立ち現われて」いるのだと。例えば「結局のところ、恐怖の感情と呼ばれているものは、『恐ろしい世界の立ち現われ』なのである」(p.231)。日が翳って葉の色が実際に(それでも緑色で塗りたがる皆さん多いわけですが)変わっていくのと同様、世界の物理的・感情的色彩も刻々と変化する。

アッと、いま自分でこの最後の一文(↑)書いて、思う。ダメじゃん。世界に「本来の、客観的・中立的な」色彩というものがあるワケじゃないのに、つい。そんな言葉づかい。習慣の怖さ。この刻々の変化そのもの(流れとよどみ?)が即ち世界なのに。

葉をつい緑色でみんなに塗らせてしまうのも、そんな習慣というか悪しき紋切り型? 観念。言葉による、デジタルな。世界がどう変化しようと、いわば変わらない(アナログのように色あせたりしない)記号。便利でもある一方で、まさにデジタル技術の進展により、この観念/言葉/記号にますます取り巻かれている私たち。変わるものと、変わらないもの。「心身問題、その一答案」から、もうすぐ40年。


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大森荘蔵のいうような世界をおそらく、描く(描ける、描いてしまう)のが昔からアーティストであったと同時に、いま、情報過剰社会のなかで世界はそこかしこで実際に、刻々とひどい立ち現われ方をして、事実、ひどいことになっているとしたら。

昔(1992、3年頃)えらい苦労して読んだドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』もそういえば、即ち世界であるところの、この流れの分析、モノや感情や貨幣の流れる四次元の話だったと記憶しています。神経症や精神分裂病や、いわゆるエディプス・コンプレックスも、それは患者の/あなたの「心の中」の話などでは全然ないのだと。そして、解放へのヴィジョンと。

そう、結局はマンガ的な紋切り型つまり観念的なペシミズムやヒロイズムが、渦巻くばかりの二元論をいまこそぶち壊して、……なんつって書きだして私もう無理、やめた。これ以上はもっと本当にやっている人たちじゃないと。いまの情報過剰社会における、訓詁学などではない哲学、例えば千葉雅也『動きすぎてはいけない』。ぜひお願いします、ラジカルでアクチュアルなやつを、もっと。

とにかく、いち絵描きとしては、先の引用「感情的色彩もまた外部世界の彩色であり相貌 なのである」をまずは、是と!
(おわり)


【注】
桜咲く4月の晴れた朝、仕事場へ来るクルマの中でひさびさに、本当にもう何年ぶりだろう? 聴いていて思わず Tweet。以下 (↓)全文。

今日みたいな日に聴いてると、つくづく名盤だと思う Shi-Shonen「(Lovely)Singing Circuit」...デジタル技術がクールだった頃。




2017年4月8日土曜日

「Beginner's Luck」Remix 満願

去年の10月に刷り上がった「Beginner's Luck」を、ふと思い立ち、Remix しはじめたのが翌11月11日。それからコツコツ断続的に作業して、いくつもボツにしながら半年かかって25点ようやく今週木曜日(4月6日)に揃う。これで満願として、とりあえず打ち止め! やっと終わったよ。

過激に Remix しても がちゃんとある、つまり、グチャグチャに行方不明に(何がやりたかったのか分からない状態に)ならない、裸婦というモチーフもさいわいして。おもしろかったです。これで個人的に、ものすごく絵の勉強というか実験にもなり、ピカソやマチスのこと、しょっちゅう考えながら。


これの元絵は → コチラ

音楽やるときもそうですが最近ますます、グチャグチャ・コテコテにしないこと(できるかぎりシンプルに!)がテーマ。それと、観念的にやらないこと。情報過多時代、キリないので。

今回の Remix でも当初、Photoshop でシミュレーションしながら作ったり、台紙に貼った上からまたさらに描き加えたり、してみたけど結局よくない。元々の筆のタッチ自体がそもそも私の場合、断片のコラージュみたいなところあるし。できるだけ「素」を生かして、もっとラフに大胆にトリップ感、盛れたらと。


これの元絵は → コチラ

ここをバサッと、こうすることで偶然、こんなふうに見えるとか、こんな意外な感じになるとか、本当におもしろいです。機会あれば精密に論文に(かったるいけどさ、もしお金になるなら)してもいいくらい。いつも言ってますが人間の知覚や認識のメカニズムといい、それに裏打ちされた「絵画」という営みといい、じつに不思議。

そして、とはいえ最終的には小難しい理屈よりも、冒頭にも書いたとおり、裸婦モチーフですから、キュートであってくれますように! それが “芯” です、私の場合(そんなかよ、って言わないように)すんごい単純、それだけに強い。


これの元絵は → コチラ

できるだけ「素」を生かして、そこに、もっとラフに大胆に、クラクラするようなトリップ感、盛れたら ……というのは考えてみれば今回の「Beginner's Luck」Remix に限らず、元々の絵についても、あるいは他の仕事や音楽など活動いろいろについても、ここ数年、求めている方向性というか質感(?)そのもの。

アートというのは結局、自分にとって、そういうことなんだと思う。いまのところ。

がんばります引き続き。あ、元の『Beginner's Luck』いまも(↓)頒布中です、もしご興味あれば http://www.mozaiko.info のほうからメールなり電話なり下さい。Remix は刷るかどうか現在、検討中。

※ ブログ内(記事)リンク
2016年10月10日: 筆跡集『Beginner's Luck』刊行
2016年11月26日:「Beginner's Luck」Remix


2017年3月30日木曜日

さだまさし「長江」と80s中国

さだまさし監督・出演の映画「長江」を見ました。そう、この中国!(劇場公開は1981年だそうで)いつ頃からだろう自分も、この中国に憧れつづけて。映画=アートというよりもドキュメンタリーとして、当時の中国がこうして映像で残っていてくれて、本当にありがたいかぎり。

途中のエピソードで例えば、拾った子犬に付けた名前が「没関係(メイグァンシ)」……大丈夫、気にするな、たいしたことじゃない、心配ありません、だとか最近私もよく言う「いいじゃんべつに」(注)も含めていいのか、とにかく、そんな名前。映画の中でも「この言葉に何度、助けられたことか」と本人。そんな中国。

この映画で結局かかえることになった、金利を含め35億円という莫大な借金をさだまさし58歳のときに返し終えたという話もすごいですが、いわゆる河川イメージを遥かに超える長江/揚子江そのものの大きさといい、中国の長大な歴史にもとづく、まゆつばも含めたその文物や遺産の時間的・空間的スケール、あるいは、都市部や市場での人、人、人だとか。あらためて、まー粗っぽいというか、生き物らしい(?)というか。

ここで一生を送りたいかって言われると微妙だけど、なぜか憧れの、この中国。本当はさだまさしでなしに、JAPAN や「流行通信」経由の(昨年 8月のブログ参照)いずれにせよイメージ先行の、ミーハー東洋趣味=Armchair Traveling。でもね、たまらないんだな本当に、この人々の(↓)様子。

映画「長江」より

映画と関係ないですが最近、昼メシ食べたあと拾い読みしている本にたまたま(↓)ありました。私たちの笑う頻度は、なんと50年前のわずか三分の一だそうで、云々。へー。たしかに、まぁ、そのほうがクールなんだろうけど。逆に(↑)上の画像の、右上のやつなんかは笑ってますな、みんな。いいなぁ。道端で勉強してる子供たちもカワイイ。

Apparently, we only laugh a third as often as we did 50 years ago, and we make love more infrequently and enjoy it less, despite the sexual revolution which has removed the sense of guilt and unleashed a flood of sexual imagery in the media.
Do You Think You're Clever? p.70

中2のときギターを始めた理由ではあったものの、正直、大学以降はもう全然興味のなかった、さだまさし。ダサイと思ってました。大学卒業時の中国も、なので貧乏旅行のくせに気分だけは David Sylvian という(↓ どこがだよ)バカ。まぁ、どのみち大学生なのでバカなんですが。食事も豪華で、たのしかったです。とにかく、たまらない感じの1980s中国。



何がダサくて、何がカッコイイか、だんだん年くってきて世の中の見え方もおかげさまで変化し、昔とずいぶん、とらえ方も変わってきました。さだまさしの歌はまだ苦手なの多いけど、生き方やシャレ心は最近、カッコイイと思う。逆にデビシルの真面目さ、オイ大丈夫かよ、だとか。じつに庶民=私、勝手なもんで。

まいっか、べつに。年寄りの懐古趣味でないと思いたいですが、とにかく私、この頃の中国になぜか憧れます。たまらん。


【注】
ビクトリア時代の哲学者ジョン・ステュワート・ミルは書いている。「自分自身に、しあわせかどうか尋ねてみなさい。すると、あなたは、そうであることをやめる」(中略)
It might be true indeed that happiness won't come to those who look for it.

これも(↑)Do You Think You're Clever? から、p.71-71。「いいじゃんべつに」っていうのは、べつに投げやりでも何でもなく私、こういうつもりです。アンディ・ウォーホルも言ってましたな、「ぼくの好きな台詞--だからどうなの」(『ぼくの哲学』p.151)って。



2017年3月15日水曜日

Novation Circuit けんきゅう

絵描きとしても、ていねいにやりすぎないというのが課題です。人間どうしても、とくに日本人(私自身も)マジメですから、つい、やりたくなるところをグッとこらえて。ていねいに、やらないように、がんばる。丹精をつまりは、込めない。……ってホントこれ、修行にちかい。

コンピュータはたいがい全部、ビジュアルに見せてくれますから、ついつい細かいところへ(も)目がいってしまう。よくない。自分の性格もあるんだろうけど。気にしてないじゃん普段、暮らしてるとき、そんなの……っていうところまで。細かすぎ、よくない。代わりに何かが死ぬ。

なので、そのための、私、絵画の場合は「超低解像度」であり、音楽の場合「脱・打ち込み」であり。自分のマジメさが、ものづくりの足を引っ張らないようにするための、いわば苦肉の策? ほとほと難儀なもんで。Novation Circuit に飛びついたのも、そんな気分からでした。


156(イチコロ)記念撮影

アナログ・ペインティングの筆ストロークや、スケートボードや、ギターで好き勝手にアドリブ弾くときのようなラフさ、ちょうだい。と注文し、届いたのが先月末。「数秒でアイデアを創出、数分で一曲に」と、まさにそれくらいの使い勝手。OK、見事な設計=割り切り方。しかし裏を返せば、そこそこのものが誰でも簡単に出来てしまうということでありまして。これも正直、おもしろくない。でしょ?

しばらく本体だけで遊んでいたんですが、ふと昨夜から今日にかけて、ついに本体自体のカスタマイズを試みて(Google Chromeから「Novation Circuit Components」にアクセスし、自分用の音源整備などしてみて)さらに感動したので、いま書いてます。

長いよ、前置きが。やっと本文(↓)



世にいう「グルーヴ・ボックス」だそうで、Circuitの場合はドラムと 2系統のシンセサイザーでもってフレーズ(=グルーヴ)を自由に作り、多様に回すことが出来る。で、その元ネタそのものから替えてしまうこと……というカスタマイズに必要な、まず概念としては下の(↓)3つプラスそれがセットになった Pack ということ、だと思う、要するに。

  • Session:曲(というか譜面=スケッチ)のこと
  • Samples:ドラム音源(サンプリング音源)のこと
  • Patches:内蔵シンセの音色設定(つまみ設定)のこと

内蔵シンセの音色については本体でもかなり加工できますが、使い勝手が見事に重視された設計なだけに、Novationシンセのさらにエグい音作りを楽しむには本体の 8つのノブではとても足りない。そこで、ユーザーらによる専用エディターの開発があり、さらに、ユニークなシンセPatch集の提供があり……と勉強がてらに早速 1つ買ってみました。じつに興味深いこういう動き、前者が 1ポンド、後者が 8.99ポンドで、とっても便利。

ただ、上の(↑)シンセPatch集は、通常の「Novation Circuit Components」からでなく、同じく上の(↑)専用エディターのほうに読み込んで、そこから Circuit本体の Patchを書き換えるかたち。ちょい面倒。でも、いったん本体側が書き換わってしまえば、あとは Novation Circuit Components にそのバックアップをとったり、そこからさらに自分なりの Sample集や Patch集を編集することが可能。そんなふうにして、どうにか、のろし派の私でも無事にカスタマイズ(第一弾)出来ました。何だよ、のろし派って?

とにかく。楽器がよくなっても生まれる音楽がよくなるとは限らないんだけどさ、何はともあれ、ありがたい時代。

さあ、お気に入りの絵具=元素材(Sample、Patchそれぞれ64種に、Session)をぶち込んで《← ここまでがカスタマイズの話》、あとは曲づくりにセッションにライヴにと《← ここはCircuit本来のよくできた使い勝手の話》それいけ大暴れ! ってか。


詳しくはコチラ http://www.h-resolution.com/novation/circuit_components.php



2017年2月21日火曜日

はなうたとローレンツ

いろんな事情や手が加わるまえの第一稿を、とりあえず自分の責任でこちらにアーカイブ。行政に働き掛けるという意識的な目的をもって書いたものではありますが、それ以上にやはり第一稿って最初の衝動というか、気分が色濃く出ていると思うだけに。書くことになったのも、それこそ諸々「話の流れ上」だし。Go! Go!


こどもはなうたコンテストについて

昭和技研(株)おもひでやの外部スタッフとして、当初から企画に携わっていて思うのは「人間の創造性って何だろう?」ということ。私自身もアーティストとして、構築的な “かたち” と、一回的な “流れ” のことが昔から気になっていました。

何かをていねいに積み重ね、構築していくことと、もう一方で、たまたま「その場のノリで」思いもしなかったようなアイデアや、ものごとが、ほとばしり出ること。前者は計画や成長といった概念とおそらく相性がよく、後者は逆にそれらとは、あまり馴染まない。何がいつ出てくるか予測がつかないだけに。

計画や成長ということと相性のわるい、たまたまその場の一回的なノリ、“流れ” の可能性は、したがって、これまで教育や生産の現場において、あまり取り上げられてきませんでした。扱いようがなかったとも言えますが。しかし、世の中が工業時代から情報時代へ進むにつれて、何かをきちんと標準的に作り上げることと同じくらい、あるいはそれ以上に、その場や人なりに「ユニー ク(唯一)な」何かが、だんだん求められるようになりました。人をふわっと “その気” にさせる、いわば生理的気分【注】のようなものの表現が、広告のみならず製品それ自体にも。

【注】
動物行動学の古典、K. ローレンツ『ソロモンの指輪』(ハヤカワ文庫)から少し引用すると(↓)
動物は音声を発したり表現運動をしたりするときに、それで仲間になにか影響を与えようという意識的な “目的” などはまったくもっていない(p134)/けれども、自分の生理的気分をしめすにすぎないこのまったく無目的 の表現は、おそろしく伝染性をもっている(p121)/無意識的な感情と情熱を伝える神秘的な発信・受信の器官は、長い歴史の産物である。それは人類とはくらべものにならないほど古い。人間ではこれらの器官が、明らかにことばによる言語の発達にともなって退化してしまった。(p135)

今また、あらためて、人間も「環境」の産物ということに他ならない、のだと思います。こどもは特に、大人よりもまだ自然に近い存在なだけに、この動物的感覚というのか、生理的気分のようなものが、押し殺されることなく、表現につながりやすい。

であればこそ今、こどもたちの「はなうた」に、私たち大人が耳を傾けてみる理由が十分にあると思われます。カワイイ以上の何かをそこから、逆に私たち大人が、学ぶために。あるいは、こどもたちの「はなうた」が伝染させる気分と一緒に、私たち大人も(例えば高齢者など)踊ってみるために。あるいは、そんな「はなうた」が出るような環境をこれから意識的に守り、育んでいくために。

従来の常識とおそらく、大きく異なる部分もあるので試行錯誤は続きますが、おかげさまで、こどもはなうたコンテスト、これまで(2012年のスタート以来)5回を重ねてきて多少の知見やノウハウの蓄積もできました。今後さらに地域の教育関係者など、さまざまな方々と意見交換しな がら岐阜発の、先進的でユニークな活動に育てていけたら光栄です。
よろしくお願いいたします。


昭和技研(株)おもひでや 外部スタッフ 清水温度


以上。基本的に「おもひでや」云々は受託仕事で私、いつも黒子なんですが、文の内容からいっても今回、第三者的な書き方では伝わらないと思い、しゃしゃり出てしまいました(↑ きのう書いた第一稿では)。失礼しました。何はともあれ 6年目の新展開に向け、Go! Go!

昨年の「うちのこのどじまん」CDは紙ジャケ

【リンク】
・こどもはなうたコンテスト・ホームページ http://omoide.main.jp/hanauta/
・K. ローレンツ『ソロモンの指輪』 http://mozaikolab.blogspot.jp/2014/05/blog-post.html